親から「就活しなさいよ」と言われた際、「終活ね。確かにいつ死んじゃうか分からないもんね。」と追撃を許さない、ブラックな返答をしていたアウルです。
真面目な話、高校生の頃から遺書を残しておいた方がいいなと考えていました。
書こう書こうと思いながら未だに書けていないのですが、この話はまた別の機会にします。
今回は、高校生だった私がなぜ “死” というものを強く意識し始めたのか、その理由について書いていこうと思います。
暗い話題ではありますが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
お葬式によく参列していた
かの有名な黒縁メガネのちびっこ探偵ほどではないが、私も人の死というものに触れる機会は多かったように思う。
祖父母は兄弟が多く、親戚付き合いもちゃんとしていたようで、誰かが亡くなると私の親もお葬式に参列していた。
まだ小さかった私を留守番させるわけにはいかないので、私もお葬式に連れていくしかなかったようです。
一番小さいころだと、幼稚園に入ったかどうかくらいのときに、親戚のお葬式に参列した記憶がある。
お寺でお経を聞いている際、ずっと正座している私に、足を崩してもいいんだよと周りにいた大人達が声をかけてきた。
別に痺れてないしいいやと思って続けていたが、実は周りにいた多くの大人が足を崩したくて仕方なかったらしい。
小さい子が正座しているのに、大人が真っ先に足を崩していたら体裁が悪いですからね。
そんなことに気づかない私は最後まで正座をし続け、お経が終わった後の休憩時間には、痺れたという声と足をさする音があちこちから聞こえてきた。
幼いながら「大人に気を使うことも必要なんだな」と学んだ出来事だった。
人の死は突然だから
私が “死” というものを一番身近に感じたのは、おばあちゃんが亡くなったときだと思う。
おばあちゃんと最後に会ったのは、「目指していた高校に合格したよ」という報告をしにいったときだった。
「よかったね。頑張ったね。」と、涙を流して喜んでくれたのを今でも覚えている。
高校に入学し、新しい環境にも慣れ、夏休みに入った。
高校が地元から離れていたということもあり、おばあちゃんとは半年くらい会えずにいた。
母とスーパーで買い物をした帰り道、久しぶりに顔を見に行こうという話になり、その足でおばあちゃんの家を訪れた。
たくさんお土産話があるなと思いながら、インターホンを鳴らして待つが一向に出てこない。
おばあちゃんも買い物に行っているのかもしれないねと話しながら、母が持っていた合鍵で家の中に入ると、おばあちゃんが亡くなっていた。
いわゆる第一発見者
ハッと息を呑むことも、アッと声が出ることもない。ただ呆然とした
倒れているのではなく、亡くなっているのだと一目見て分かってしまった。
不思議なもので悲しいとか寂しいとか全く感じない
母が必死に呼びかけて、緊急の連絡を取っているときも、あぁ大変なことになったなと他人事のように思っていた。
警察や医師が目まぐるしく家を出入りする中
私はおばあちゃんとよく話をしていた、テーブルの定位置に座り、彼らの仕事が終わるのを待った。
何時間も経ってようやく帰宅できた。
家に着いて自分の部屋に入ったとき、はじめて涙が出た。
おばあちゃんとの思い出が、次から次へと頭に流れてきた
小学生の頃、バスに乗って会いに行ったら、ちゃんと来れたねと褒めてくれたこと
おばあちゃんに教えてもらいながら、一緒にビーズのアクセサリーを作ったこと
外食で遠慮している私に、デザートも頼んでいいんだよと笑って勧めてくれたこと
あの優しく頭をなでてくれた手も、自分に向けてくれた笑顔も、
もう触れられないし、もう見れないんだなと見れないんだなと思ったら、バカみたいに泣いていた。
それでも家族で夕飯を食べる頃には、もう泣きやんでいつも通りに過ごしていた。
一番つらいのは母だから、余計な心配を掛けないようにと、気丈に振舞っていたのかもしれない。
私が現在、大抵のことに動揺せず冷静に対応できるのは、この経験が影響しているのだと思う。
あとから、おばあちゃんは私たちが会いに行った日の “数日前” に亡くなったようだという話を聞いた。
もう少し早く会いに行っていれば……
そう思ったのは一度や二度ではない。
今日できることは今日しておけ
私は別に同情してほしいわけでも、不幸自慢をしたわけでもない。
この記事を読んでくれた人が、人はある日突然死んでしまうものだと改めて感じ、今日という日を大切にしてくれたらと思っている。
言葉や文字にすると、すごく安っぽくなってしまうけれど
今日できることは、今日のうちにしておいたほうがいい。
ありがとうと伝えたい人がいるなら、今日伝えた方がいい。
好きな人と喧嘩しているなら、今日仲直りしたほうがいい。
今伝えないと明日には難しいどころか、出来なくなっているかもしれない。
私はおばあちゃんに何も伝えられなかった。
恥ずかしくて大好きだよなんて言えなかったし、一緒に作ったアクセサリーを大事に飾ってあることも伝えていないし、どこかに旅行へ行こうと誘うこともできなかった。
私の好きな色が紫だったのは、おばちゃんの好きな色が紫だったからってことも、きっと知らないと思う。
おばあちゃん孝行は、ほとんどできなかった。
今となっては毎年おばあちゃんのお墓に行って、手を合わせることくらいしかできない。
難しいと感じるのは分かる
まぁさ、今日のうちに伝えろとか言われても、恥ずかしいし照れてしまうし急には無理だよと思うのが、正直なところだと思う。
私も今から親に「いつもありがとう」と伝えてこいと言われたら、さすがに恥ずかしい。
でも大事なことだと思うんだよね。思っているだけじゃ伝わらないこともあるし、言葉にしてくれたほうが嬉しいこともあるわけだから。
人に言っておいて自分がやらないってのもおかしいから、私は記事の途中だけど伝えに行ってくるよ。
私が伝えてきたら、あなたも親に限らず日ごろ感謝している人にその思いを伝えてほしい。
ということで行ってきた
よっしゃ伝えてやるぜ!と意気込んだはいいが、なかなか恥ずかしくて、タイミングを見計らいながらずっとウロウロしていた。
これが家の中じゃなかったら、不審者がいるって通報されてたね。
こちらに背を向けてテレビを見ていたから、さりげなーく肩もみをし始めて、「あぁ気持ちいわぁ」と言ってきたタイミングで「いつもありがとう」って伝えた。
ちょっと驚いてたみたいだけど「はいよ」だってさ。
自分が感謝を伝えたはずなのに、こっちまで嬉しくなるのは何なんだろうね。
いつも感謝を伝えているわけでもないのに、当たり前のように支えてくれているという、見返りを求めていない “愛情” を改めて感じたからかな?
ということで、ぜひあなたも日ごろ感謝している人に、その思いを伝えに行ってきてください。
急にどうしたの?と聞かれて困ったときは、「なんとなく」や「明日雪を降らせようと思って」と、てきとーな返事をすればいいので(笑)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
いつもブログを読んでくださる方にも、この場でお礼を言わせていただきます。
この記事を書こうと思ったのも、今日親に感謝を伝えられたのも、あなたがこうしてブログを読んでくれているからです。ありがとう!
あなたも今日という日を大切にしてください。それではまた